ウインドサーフィンを始めたその日から声をかけていただき、大きな影響を受けた地元のウインドサーファー、アンダーグラウンドハードコアの福岡さんが天に召されました。あまりに突然だったので仲間はみんなショックを受けていますが多分、つい最近仕事を早期退職し、これからはウインドのことだけを考えて生活できると(今までもずっとそうだった気もしますが)やる気満々だったという福岡さんが一番びっくり、こんなはずじゃなかったと言ってるのではないかと思います。
海で彼のために祈ったけれど。私が彼から受けた影響や与えてもらったものはあまりに大きいので、何か文章にして残しておこうと思い、これを書きました。
残された奥様、福岡さんはみんなに愛され、ウインドサーフィンを誰よりも愛し、海にいる時はいつも幸せそうでした。
福岡さん、本当に今までありがとう、私が感じる海への魅力の根底にあるのは福岡さんはじめ坂ノ下の先輩方の海への思いを見てきたからだと思っています。わかってくれない人もたくさんいるかもしれないけど私は福岡さんが幸せだったのをよくわかるし、私も吹くかさんと同じ理由でとっても幸せです。ありがとうございました。
Windsurfing stoke for life 大好きな福岡さんへ
中学生の時でしょうか、ウインドサーフィンをしたいと思い始めて、いつかは道具を手に入れたいとお金を少しずつ貯め始めました。何かあるたびに次のクリスマスにいくら、お誕生日にはこの人からいくらもらおうとか、お手伝いのアルバイト(草取りとか、草三本ぬいて1円とか)したら六ヶ月後にはいくら貯まるとか、そんなことばかり授業中にノートに書いて計算し、何年先にウインドサーファー艇が帰るなんていう妄想ばかりしていました。
高1の冬に隣に住んでいた外人さんが引っ越す際中古艇を5万円で売ってくれるというので予想よりちょっと早く手に入ることになり、大喜びだったけれど、冬だったのでウエットスーツがないととても寒くて海に出られない。ということで、雑誌の広告で一番安くウエットスーツが買えるところ御徒町のローカスまで行って、残ったお金で買えるロングジョンを買い、そこの店長さんが『その下にこれを着るとかなりあったかいよ』とゴム地でできた袖なし半パンのものをただ同然でくれました。その二つの上にセーターやウインドブレーカーを着て、自宅のお風呂に熱いお湯を溜めてから海に出てどうにも寒くなったら家に走って帰ってお風呂に飛び込むシステムで一冬過ごしました。そして一緒にやろうと誘った3歳年下の従兄弟と交代で、午前中私がやったらストーブでウエットを乾かして午後はいとこ、その安いウエットを二人で交代で使い、その間もう一人は海で見学していました。
そんな最初の頃の思い出はともかく、まさに二人で初めて道具を引きずって由比ヶ浜に行った時、子供が二人で見るからに初めてという様子で出てきたからそこにいた他のウインドサーファーは危ないと思ったのでしょう。すぐ声をかけてきてくれました。危ないからやっちゃダメというのではなく、優しく同じ仲間として声をかけてくれ、いろいろアドバイスをくれました。そのフレンドリーなお兄さんが福岡さんでした。そして道の向かいにあった喫茶店ZINDY LOU というところにみんないつもたむろして、この浜でやってるからねって教えてくれました。まだ子供だった私たちはその喫茶店に遊びに行く勇気もお金もありませんでしたが、それ以来いつ行ってもビーチにいる福岡さんとその仲間たちはいつでもにこやかにいろいろ教えてくれました。私が16歳の時、つまりもう40年以上も前のことになるけど、今でもその時のことははっきり覚えています。
いつ行ってもいるから何をしているのかと思ったら大学生だから学校行かなくても大丈夫だから毎日海にいるって聞いて、それがもしかしたら大学に入れば好きなだけウインドができる!と私が考えた最初のイメージを与えてくれたのかもしれません。とにかくどの日のコンディションや風を聞いても全て覚えていて、福岡さんほど海にいる人はいない、それを彼自身も自慢してましたし、毎日毎日海にいてウインドを楽しんでいました。
もうひとつ今でも覚えているのは夏のある台風の日、私がアメリカ留学から戻ってきたらウインドサーファー艇からみんなファンボードと呼ばれるものに変わっていて、一大カルチャーショック、そんななか台風で大波が割れて押し寄せてくる海、海水浴禁止のビーチでみんな坂の下からショートボードで出て、沖まで果敢に出て行こうとするけど一人また一人と由比ヶ浜に打ち上がっていたこと、できない、きついと言いながらみんな本当にいい笑顔で晴れ晴れとして目が輝いていました。当時ロケット99というモデルが最初に出て、福岡さんだけロケット88という小さめの板にしていた気がしますが、強気に出過ぎて苦労していたような。その後すぐランファンという日本製のも出てきてこれが日本の海にあっていたのかみんながそれに乗りランファン大ブーム、そしてウエイブライディングの時代が来たのでした。
福岡さんは由比ヶ浜坂の下でのオーシャンライフを象徴する人でした。プロでもないし、大会に出ていたという覚えもないけど、誰よりもウインドが好きだと自他共に認めるウインドきちがい、就職もウインドが続けられることを優先し、仕事先で会社にフレックス制度をスタートさせたのもウインドのために彼がきっかけだと聞きました。昇進よりもウインドできる自由を確実に大事にしていました。
出会ったのも一緒にウインドしてもらってたのも大昔のことだけど、いまでも坂の下に行けばあたりまえにみんながいるつもりになってました。そして実際いつもそうだったんです。マウイから戻ってきて久々に坂ノ下行っても、風が吹いてきたらいつものメンバーがちゃんといる。昔と変わらずにこやかででもどこかワイルドな目の輝きを持って海に向かっていく皆さんは私がすごくいいホームだなと思える部分です。
わたしにとっては福岡さんは初めて声をかけてくれたウィンドサーファーだし、好きなことを優先するライフスタイル、妥協せず突き抜ける生き方はいつの時も尊敬、共感を持っていた、大好きな先輩の一人です。みんなが台風のとき坂の下から出て一人また一人と大間からして由比ヶ浜に打ち上がり、それでもみんなめちゃキラキラ目を輝かせて夢中になった波、巻かれた話をしてた時の福岡さんの普段見ない良いなギラギラとした目力もみんなの興奮した様子の昨日のことのように思い出します。ロケット99が出た頃の話ですけどでもそんな皆さんがわたしにビッグウェイブというのは特別ですごいものなんだと感じさせ、その後もそれが自分の目指すところの軸にあったように思います。本当に鮮やかで楽しく、いろんな感情を経験させてくれる人生を皆さんのおかげで続けてくることができました。この歳でまだワクワクしながら海のことばかり考えてるなんて思いもよりませんでしてが、幸せ者だと思っているし、福岡さんも幸せだったんじゃないかなあと思います、まだまだ乗りたりなかったとはおもいますが。ビーナスあたりに献花してこようと思います。
坂ノ下はいつまで経っても私が若手の気分が味わえる、いつまでもその気持ちでいられるよう先輩方にはずっとずっと海で頑張っていただきたいと思っています。私もあちこち痛いですが頑張ります。
福岡さんうまく感謝の気持ちが言葉にまとまりませんが、本当に本当にありがとうございました。
坂の下由比ヶ浜のアンダーグラウンドヒーロー、ほんとに突き抜けててかっこいいスタイル、ずっと見本にしていきます。