2010-05-11

5月10日 Power of praying

八重山滞在中にダライラマの自伝を読んだ。以前に読んでいたものはそれよりもずいぶん前に書かれたもの「チベットわが祖国」今回のものはその後新しく抱えたもので猛出版されてから何年も立っているけどなかなか機会がなくててに入らなかったもの。彼の人生ががらっと変わったわけではないので少年時代の内容などはすべて知っているものだったけれど、チベットわが祖国にはかかれてなかったもの、そして最初の自伝出版以降の出来事なども書かれていて興味深かった、というかこの本もチベットわが祖国も何度読んでもいい本だと思う。こういった内容は読んだときだけ、感銘を受けるのではなく何度も読んで、こういうことが起こっているのだということを忘れないようにすべきだし。

チベットの現状、本当にことは私たちにはほとんど伝わってこない、でも最近では中国が世界に発している内容がうそばっかりであることにはみんな気がついている。それでもひどいね、と思うだけで終わってしまいがちだが、もしこれが自分の立場であったら、自分のアイデンテイテイーを根底から崩されようとしたら、それはどんなことが、想像もつかない。中国のことは本当に私にはわからないが、ダライラマの書いていることは私にはとても納得がいくものでどんな宗教より共鳴できる。

どの宗教でも祈りとは大事なこととされるけれど、神に祈るというのは神頼みとは違う。私の中では実はそれはビ従来ゼーションにも似たものがあるのではないか、と勝手に考えている。(私は宗教家ではないし、宗教に関してたいしたちしきがあるわけでもないので自分なりに勝手に考えているだけだが)
ビジュアライゼーションがどんなことをするにもとても重要なのは体験済み、頭で思い浮かべられない動きは海の上では絶対に不可能。メイクできないし、これがやりたい、と強く頭でイメージしたことは不思議とできる。それがたとえばアラスカに行きたい、とか、こういうライフスタイルを送りたい、とか、そんなことでも。でもイメージしながらも、でも同時に心配になり、やっぱり無理かなあ、とネガテイブなイメージをうけべてしまうとなかなか達成できない。大体何かを達成している人を見ていると、心配とかもし、できなかったら、ということをまったく考えずに突き進み、できること、そして自分の可能性を信じ切っている、つまりやりたいという形のイメージがはっきりと自分にあるような気がする。

祈りもそう、キリスト教でもイスラム教でも仏教でも何でも祈りはとても大事なものとされているが、自分が毎日、強い気持ちで、こうなって欲しいと祈り続け、イメージがはっきりすることでそれに近づくのではないだろうか、そういう意味で祈りって言うのは実はかなりパワフルなものなのではないかと思う。もしも世界中の人がダライラマと同じくらい強い気持ちで、世界中の人がすべて幸せになれるようにと祈り続けたら、地球のすべてのものがつながっている。それを実感するのは難しいかもしれないけれど、細かく考えたり分析してみたりすれば明白なこと。だったら世界のどこかで苦しんでいる人がいたり、自然が破壊されていたら、それが自分に帰ってくる。それは自分の部屋を掃除しなかったら汚くなって居心地が悪くなるのと同じくらいわかりやすいことなのだ。(これを書きながらこの部屋も掃除をしなくチャと考えながら書いているのだが)すべてがひとつであるという概念が理解できるようになってきたのは恥ずかしいことながらつい最近だと思う。それまでは理論としてはわかっていたが、体感していなかった。

ビジュアライゼーションとして世界の平和、誰もが愛情を持って人に接することができる時代が来ることをみんなが祈ればそれはきっとそういう流れを作っていくことができるんじゃないかなあと、思う、そして無理かなあ、とマイナスのイメージを浮かべずに、いつかはそうなることを信じて少しでも私の祈りがその達成までに必要な祈りのたしになればいいなと思う。
May I be filled with loving kindness。
May the whole world be filled with loving kindness.

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