
昨晩キャンプしたところと金華山の間の海はどれくらいの距離かわからないがとりあえず軽くいけるような距離ではない、そして海も深く穏やか。でも津波のときは引き波でこのあいだの海底が見えたという。とても信じがたい話だがそこかの写真集に証拠写真が載っていて愕然とした。



ダイスケクンたちが持ってきたあらゆるおもちゃのなかで好きなものをひとつずつ選んでもらったのだが、おもちゃ屋さんがお勧めしてくれた今子供に人気のダンボール戦機(ガンダムのようなものだと思うのだが)のプラモデルを見たとたん頬ずりする子までいるほど。

昼休みはみんなでボールをけったり、マサ君の車椅子を子供たちがフルスピードで押して介護(?)してくれたり、フラフープを見せてくれたり、子供たちは本当に無邪気、先生方に聞くとほとんどすべての子供が家を失ったり家族を失ったりしているというが、学校にいるときの表情は明るい、私はぴかぴかの一年生たちが苗を植えたばかりの小さな畑に一生懸命水場と畑を何往復もしながら水遣りをしているところをみていたが、余りにかわいくて純真でそのままずっとそこで一緒にいたい気持ちだった。
学校を離れたあと集落の瓦礫の中を一人で歩き回っているおじいさんがいた。ヤーマンが写真を撮っているあいだ遠慮しながらも近くにいたので話しかけると、海の前で食堂をやっていたという。津波のときの話をしてくれた、第一波が来たときは屋根の上から海を見ていたらしいが次に来るものが沖からものすごい大きさで近づいているのを見て、潮が引いて地面が出たときに大急ぎですぐ横の山の斜面に駆け上って何を逃れたが奥様は助からなかったらしい。名取市にいるお嬢さんのところで生活をしているけれど今日は奥様の火葬をするために久しぶりに戻ってきたのだそうだ。「食堂はあそこにあったんだけどものがこっちのほうに全部打ち上げられているんだ、」と家からはずいぶんはなれたところでみて受けたお盆や神棚の飾りなど「こんなものもって帰っても娘に置く場所がないと怒られるだけだな」といいながら抱え込んでいた。
「もうここには住む気がしない、数年前に食堂をやめてやっと奥さんと二人のんびり引退できると思っていたのになあ」
「うちが丸ごと引き波に引っ張られて海に浮かんで沖にドンブラコッコと流れていってしまうのを見ながら、ああ、金庫にいれてあったローレックスもったいないなあ、なんて考えたよ、家のほうが高価なのにね。それにしてもこれだけ葬式が多いのにお寺さんは被災したのだからとお金を取らない、お寺も大変だ」と話してくれた。なんて慰めてあげたらいいのか、奥さんをなくされ、今までがんばってきたものがすべて流されるつらさは想像もつかない、だけどそういう人たちがみんな淡々と人事のように話す様子はなんだかみんないっしょだ。
その後写真を撮りながら気仙沼に向かったが結局たどり着いたのは暗くなったころだった。山のほうから海に向かって進んでいくうちに急に景色が変わる。
海なんかぜんぜん見えない山のなかなのに川を津波がさかのぼって大きな被害が出ている。まさかこんなところに津波が来るなんて誰も考えもしなかったに違いない。

こんな美しいところでキャンプしてまさに極上サーフトリップ気分、海に入れないけどそれ以外はまさにそんな感じで旅が続いている。
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