2009-06-13

6月11日 ファッツ・ヒバを読んで

相変わらずベッド生活。昨日の晩は少し立ち上がって歩けたので夕食を立った状態でもおちゃんたちと一緒にリビングで食べたけどやはり10分もしないうちに腰がなんとなく変な感じになってきたのでまたベッドへユーターン、今朝早く結構痛みが出ていたのでまた元に戻らないようにとにかく安静を心がけることにした。

ここ数日間で何冊か本を読んだ。その中に、前回鎌倉の古本屋で見つけた、トール・ヘイエルダール
著の「ファッツ・ヒバ、楽園を求めて」上下刊がある。かなり古ぼけた本で文庫の古本なのに1000円もしたので迷ったけれどヘイエルダールは私の英雄の一人なので手に入れられるものは手に入れておこうと買っておいたものだった。いや、ほんとに買っておいてよかった。デルスウザーラ
、あるいは坂本直行さんの「開墾の記」
と同じくらい感銘を受けた。最後読み終わってしまうのが悲しいくらいだった。
いつも私が感じているようなことを彼は1930年代にすでに感じ、実践し、思い悩み、さらに行動を移していたのだと思うと本当に感動した。彼は理想主義のドリーマーだとばかにされたり、彼のポリネシア民族の移動説についてもくだらないと頭ごなしに言う学者が多いらしいが(いまでもそうなのかはわからない)私には彼の言い分はとっても筋が通っているように思えるし、少なくとも現地に行ってみないで書類や推測だけで研究を進めているのではなく、自然のなかで昔の人たちの同じような生活をしてみて実際に感じること、経験したことを通しての研究結果であり、説得力がある。
彼らが自然に打ち負かされ、自分たちの理想的な生活がそう甘くないことをなんどもあじわうような部分もそれが人間的でいいではないか。反対にすべてうまく言っていては新しい発見などないのだから。

彼らが理想の生活とは単純なもので少ない人間のなかで単純に食べ物を得る努力をし、自然のなかで調和して生きることだと理解したうえで、しかしながら地球の果てまでそういう場所を捜し求めてこの太平洋の島に来たにもかかわらず、そういう生活が出来る場所はもうすでにどこにもない、ということも理解する最後の部分は自分を含めた人間の傲慢さと無知で変わっていった世界に物悲しい気持ちにさせる。
彼を有名にしたコンティキ号探検記
という本にもなっている筏の冒険は、ファッツ・ヒバでの生活から生まれた学説をどうしても証明するために行われたものであり、その冒険の物語こそ、子供のころ私を魅了してやまなかった話の一つでもある。あれだけのことをやるのはよっぽどの変人か冒険かなのだろうな、と思っていたけど、実は変人(変人かもしれないけど)でもないし、とくに死ぬか生きるかの冒険が好きなわけでもないようだ、何より泳ぎが得意でなかったというところには苦笑した。しかし自然、それも圧倒的なパワーを見せ付ける自然の近くにいることに惹かれ、また情熱的でやろうとなったらどんなことでもやる方法を見つけ出し、行動に起こす行動力があるという人なのだと理解できた。結局今の時代で私が尊敬するほかの人たちとかわらないような気がする。レアードや、何人かのクライマーたち、イボン、リチャード・ブランソン、すごいなと思う人は皆情熱的であり、またその情熱を一気に注ぎ込む夢中になれる何かを持っている、そしてそれが彼らを輝かせているような気がする。

この本のなかに『進歩』について書かれているところがある、それはまさに私がいつも日ごろ感じていることだった。ここ100年ほど進歩、発展といわれていることは確かに私たちの生活を便利にし、楽にしたかもしれない、でもその分私たちは体を使わなくなり、またその便利にしてくれた機械や情報を得るために机や書類に向かって仕事をしなくてはならない、そのおかげで一番肝心の体は進歩せず退化しているのではないか。機械や薬で危険を減らしたことにより危険を感じる判断力や本能、また体の状態に耳を向けるようなこともしなくなり、体自体の筋肉も確実に衰えた。以前は何キロも毎日歩いて食べ物をとっていたのに今では、狩や農作業をしなくても車でどこへでも行き、パッケージを持ち上げ、ボタンを押す力さえあれば食べ物をとることが出来るのだ。そこまで言うと極端だけれど、たとえば海に常にいる漁師さんは今でも私たちより海との関係が深く、自然の行ってる言葉を聞き取れる、また山に常にいるようなクライマーは私たちにはまったく予知できない第6感のような判断で危機一髪を乗り切ったりするのも昔はほとんどの人間が持っていたものなのではないかと思うのだ。だけど使わないから衰えていってしまったもの、極端なことを言えばインターネットばかりで直接人間と付き合うことが急激に減っていけば人間同士の付き合う能力も衰えていってしまうことだってありえるだろう。恐ろしいことだ。発展、開発、進歩という言葉のうえに私たちの時代は築き上げられてきたけれど、今になってやっとヘイエルダールがこの本でつらい思いをして実感している進歩の影の自然のバランスの衰退、個人の肉体や精神力の退化を世界中が理解し始めたのだ。

さてヘイエルダールが文化を捨てて原始の生活をするために最初に選んだファッツ・ヒバはタヒチから数千キロ、ツアモツの近くにあるのだが、ツアモツは以前からチャンスさえあればいつでも行きたいと思っていた場所のひとつ。この本のおかげでそのモチベーションが一気に上がってしまった。
その上へイエルダールはここから始まっていろんな文化人類学の研究に走り、カナダのべラクーラと深い谷に挟まれた小さな村にいたこともあるのだ、それを私が知ったのはそのべラクーラに何年か前にヘリスノーボードで行ったときのことだった。タヒチやイースターアイランドのことで知っていた彼の名前がその村の小さな博物館にあってびっくりしたのだ。彼はポリネシアが南アメリカから渡ってきた民族だということだけでなく、このカナダの海岸線に住んでいた民族の文化と多くの類似点を持つことに注目し、ここでしばらくの間生活しながら研究をしていたらしい。子供のころ文化人類学者になりたいと思っていた私は残念ながらウインドサーフィンに出会い、その道には進まなかったが、今でも人間のルーツ、そして環境が作る人間というものについてとっても興味がある。
彼の本を読んでSeeing is believingやっぱり実際に見たり経験することほど深く感じ、学べる方法はないのだな、と実感し、自分もさらにすべての経験、旅においてそれが教えようとしてくれていることを見逃さないようにしっかり吸収しなくては、と思う。一つ一つの出来事、一人一人との出会いが大切な学校であり、自分を成長させるチャンスを与えてくれているのだということを忘れないように。

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