市内のホテルで目覚め、ゆっくり朝食をとってから行きかたを調べて電車に乗った。40分くらいで七ヶ浜の駅へ。そこから小学校の恩師武田先生に電話をした。
今回仙台に来た際に小学校のクラスメートたちから使命を受けてきていたのだ。武田先生に会って、みんながあって話し合った内容やメッセージを届け、またみんなで話合って決めた小額ではあるけれど気持ちをこめた寄付金を彼に渡すということ。
武田先生は間違いなく私にとってもっとも影響を与えてくれた恩師であり、おそらく一緒のクラスだった人たち全員が同じように思っているだろう。当時27歳だった先生はまさに熱血先生で、体当たりでいろんなことを教えてくれたし、成績を良くするための勉強はあまりしなかったけど、その分たぶん人間として大事なことをたくさん身をもって教えてくれた。
だからこそ今でも武田先生のこととなると40年近く前のクラスメートたちなのにみんなあつまってしまうのだ。
今回は私の親友やあこ、そしてあかね君が中心になり、同窓会ではなく、学級会を開いたらしい。そこでみんなで先生のこと、震災のこと、自分たちに何ができるか真剣に話し合い、それを長島君が議事録としてまとめてくれた。
考えてみれば小学校のときも何かちょっとでもあるとすぐ先生は授業そっちのけでみんなに話し合わせたり、そのことについてみんなに作文を書かせて、文集にまとめてくれた。今でも大事にとってあるものがたくさんあるけど、その中にはごみのこと、弱いものいじめなどの内容もある。
このクラスだけは同級生と会うとその冬至に完全に戻ってしまい赤根君のことも赤根、としか呼ばないし、向こうも岡崎と呼んでくる。小学校のままなのだ。
みんなで話した結果、さいしょは先生の実家のお寺が大変そうだからそこに送ろうかという話もあったが、寄付金は武田先生に預ければ、きっと先生が一番いいところにもって行ってくれるだろうということになった。そしてみんなの話し合いやメッセージが入ったビデオ、議事録などすべて先生に届け、私たちの暮らすが相変わらず先生が教えてくれたようにみんなでフェアに、話し合ったことを報告した。
みんな先生にあいたくて仕方がない。もう子供が成人した人だっているというのに先生の話になるとまるで小学生だ。
武田先生は決して成績で生徒を評価しなかった。星の子学級の生徒を進んで受け入れ、私たちの暮らすにはいつも数人の星の子学級の生徒がいて、ちょっとだけヘルプが必要な彼らをみんながごく自然にヘルプする空気があった。そして助けが必要な人に手を差し伸べることが自然にできる子供のことを一番評価していたように思う。
理科は社会より野球の練習に時間を割いていたから学年のどこよりも野球が強く男の子たちは野球に夢中だった。
今回武田先生のおうちにお邪魔して当時の話しをし始めたらどんどんいろんな話が出てきてしまい、簡単に報告したら変えるつもりだったのに、結局3時間くらい居座って話し込んでしまった。
結局鎌倉に帰ってきたのは夕方遅く。待ち構えていたように、クラスメートから電話があり、「どうだった?」とたずねてきた。みんな先生に会ってきた私をうらやましがり、近いうちに先生にあいに行くツアーをやろうという話になっているらしい。私たちを教えるのはきっと大変だっただろうし、当時あれだけ自由な教育をしてくれことで父兄やほかの先生方からの風当たりは強かったはずだけど、これだけ長い年月たってもこんなに生徒から慕われている先生、教えたかいがあったって思ってくれてるんじゃないかなあ。
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