気仙沼でのある夜、みんなでのんびり語り合ってるときに母からテキストメッセージが来た。
「あちちちゃんがとうとう亡くなった。お通夜が13日、お葬式14日だけど来れる?」
あまりのタイミングのよさに私は鳥肌が立った。だって、鎌倉に戻るのが12日の夜、そしてマウイに帰るのが16日だから鎌倉にいるたった3日間の間の二日にぴったりあちちちゃんのお葬式の日程が入ったからだ。それもこの日程はもっと早くしたかったのに一杯で取れなかったため、らしいのだ。
これは彼女が私のために仕組んだこととしか思えなかった。
あちちちゃんというのは私の第2の母ともいえる存在の人、母とおばあちゃんのあいだというような人。また一番の理解者でもあったかもしれない。
とにかく生まれたときからお世話になりっぱなしで、土曜日は仕事に出ていた母の代わりにずっと面倒を見てくれ、それ以外にも私はとにかく暇さえあれば自分の家のすぐ隣に住んでいたあちちちゃんのところに遊びに行っていた。彼女の住んでいたほんとに小さなスペースは私にとって自宅よりも居心地のいい場所で、お嬢さん二人もネーネ、大きいネーネと呼び、わがまま放題に遊んでもらっていた。あちちちゃんという呼び名がどこから来たのか私はずっと知らなかったのだが、今回お葬式で、実は私が子供のころ、志村さんと名前を言えず、あっちの家に行く。あっち、あっちといっていたところからあっちちゃん、あちちちゃんになり、それがみんなに定着したのだそうだ。
彼女との思い出はありすぎて、次から次へとあふれるように頭に浮かんでくる。いい加減な私、部屋を散らかしっぱなしの私にもしょうがないねえ、といいながらはじから片付けてくれたり、「とんちはすぐごめんなさーいっていうから気持ちいいけどごめんなさいっていうだけだからねえ』とため息ついていたっけ。
家で親に怒られると、すぐ隣のあちちちゃんの家に避難し、ほとぼりが冷めるまで一緒にテレビを見て床でごろごろしたり、お菓子をもらって食べたり。私だけでなく、うちの親戚はみんながそうだった。親戚だけでなく、うちの近所の子供たちはみんなあちちちゃんにかわいがってもらっていたし、怒られた。そして心から愛されて育った。
誰もがあちちちゃんのことを大好きで、みんな、あちちちゃんが一番立派だとわかっていた。いつも一番控えめだったけれど。
正直言って彼女が亡くなったという一報に対する私の心の反応は「安堵」だった。あちちちゃんの夫、ジージがなくなって以来、彼女はずっと、早くジージのところに行きたいと言っていた。もうそれが10年近く前のこと。誰よりも人に頼らずに生きたいと思っていたあちちちゃんだからとにかく人に世話になるくらいならさっさと死んでしまいたいと思っていた。なのに転んだことが原因でひとりでの生活は危ないからとお医者さんに止められ、横浜にある娘さんの家に一緒に住むことになった、そのときも長年一人で住んできた家を離れるのがとってもつらそうだったけど、それからずいぶんのあいだ、あまり動けないまま、一緒に暮らしていた。結局最後は具合が悪くなリ、もうだめかと思ったときに存命のための処置をして、ほとんど意識もなく、もちろん体も動けない寝たきりの状態で5年くらい病院で過ごしたのだ。
何度かお見舞いに行ったけれど、そこははっきりいってあちちちゃんがいたいと思う場所では絶対になかった。お嬢さんのネーネは「もうほとんど意識がないから本人はあまりわかってないのが救いなんですよ」って言ってくれたが、私にはあちちちゃんの悲しみが、早く天国に行きたいと思ってる思いが伝わってきた。それがつらかった。そして私が彼女を見ながら話しかけているとうつろな目をしてこっちを見ていたが、その目から涙が流れたのだ。私は彼女がある程度意識があって早くジージのもとに行きたいと今なお何年も思い続けていることをそのとき確信した。
だからジージがやっと迎えに来てくれたあちちは。やっとこっちの世界にお別れができて喜んでいるだろう。私も彼女のことを思うと嬉しい。とはいえ涙だけは止まらず、考えるだけで涙が出てくるのであまり考えないようにしていた。
11日の石巻のお祭りのときもふと思い出すとなんだか天からあちちちゃんが見ているような気持ちになれた。もう何年もまともに話していなかったあちちちゃんだが、天国に行ったことで話がしやすくなったようなそんな感覚だった。
彼女が私にくれたのは無条件の愛、見返りも期待も何もせずただただ愛してくれた。そんな彼女に私は結局何も恩返しできなかったし、ずっと楽しみにしていた私の子供を世話することもさせてあげられなかった。でもあちちちゃんのことを愛する気持ちだけは彼女がくれたのを同じくらい返していると思う。
お通夜では悲しくもないのに涙がでて止まらなかった。それは悲しみの涙というより、いろんな思い出や楽しかったこと、たいしたことでもないことなのに今考えるとかけがえのないひと時だった数々のことが思い出され、それに対する感謝の涙だった気がする。
彼女が私に与えてくれたような愛情を私も誰かに与えることができるのだろうか。いろんなことを教えてくれたあちちちゃんに対して何も御礼はできなかったけれど、人間とはどうあるべきか、いい見本を示してくれたのだから、それを無駄にしないようにしなくては、と思う。
本当に心からありがとう、あちちちゃん、私が天国に行ったらまた二人でごろごろ、だらだらして過ごしましょう。
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